『真田丸』『風林火山』…大河ドラマで話題の戦国武将を深掘り!武田信玄・上杉謙信・真田幸村・伊達政宗の生涯と人物像

戦国時代を語る上で欠かせない、戦国武将。個性豊かなその生き様は、現代の私たちにも強い影響を与えています。なかでも、「武田信玄(たけだ しんげん)」「上杉謙信(うえすぎ けんしん)」「真田幸村(さなだ ゆきむら)」「伊達政宗(だて まさむね)」の4名は、昔からTVドラマやゲーム、アニメ、小説など多方面で取り上げられることが多く、最近では大河ドラマ『真田丸』や『風林火山』でも話題ですよね。本記事では、そんな4人の生涯や人物像を徹底解説! 長きにわたって愛される彼らの魅力を紹介します。 

戦国時代とは?どれくらい続いたのか、有名な武将は誰?

戦国時代 武士 侍
※写真はイメージ 

戦国時代は、「応仁の乱(1467年)」をきっかけに全国的な戦乱が巻き起こった時代のこと。いつまで続いたのかについては諸説ありますが、「関ヶ原の戦い(1600年)」や江戸幕府成立(1603年)を経て、「大坂夏の陣(1615年)」までの約140年間とするのが通説です。

戦国武将とは、単なる武力だけでなく、政治や外交にも優れたリーダーを指します。そのなかでも、本記事で取り上げる武田信玄や上杉謙信、真田幸村、伊達政宗をはじめ、織田信長(おだ のぶなが)、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)、徳川家康(とくがわ いえやす )らは名将として知られ、今なお語り継がれる存在です。

武田信玄(たけだ しんげん):戦国時代の甲斐の虎 

戦国武将 武田信玄

「風林火山」の旗印で知られる武田信玄は、戦国時代屈指の名将として知られています。その生涯や戦歴、ライバルとの戦い、象徴となる家紋や名言を通して、彼の魅力を探っていきましょう。

武田信玄は何をした人?その生涯と人物像

武田信玄(1521〜1573年)は、甲斐国(現在の山梨県)を本拠とした戦国大名で、「甲斐の虎」の異名をとりました。この異名は、信玄の勇猛さと卓越した戦略眼にちなむものです。父・信虎(のぶとら)を追放し家督を継いだのち、信濃・上野・駿河方面へと領土を拡大。特に信濃侵攻では小県郡や諏訪を制圧し、信濃統一へと近づきました。また、今川(いまがわ)・北条(ほうじょう)との「甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい )」など、外交戦略に優れた一面も。民政面では治水・灌漑・道路整備にも力を入れ、甲斐の国力を高めました。1573年、西上作戦の途中に病没。後継者は息子・武田勝頼が務めました。

宿敵・上杉謙信との川中島の戦い 

武田信玄 上杉謙信 信玄・謙信一騎討ちの像
信玄・謙信一騎討ちの像 画像提供:(公財)ながの観光コンベンションビューロー 

武田信玄と上杉謙信の対決として知られる「川中島の戦い」は、1553年〜1564年の間に5度行われました。なかでも1561年の第四次合戦は最大規模で、両軍合わせて数千人もの死者を出す激戦だったのだとか。信玄は奇襲を狙う「啄木鳥(きつつき)戦法」を用いましたが、謙信の機先を制した対応により本陣を突かれたとされています。この戦いは引き分けに終わり、両雄の実力と名声を世に知らしめる結果となりました。

武田家の家紋「武田菱」

武田家の家紋として知られる「武田菱(たけだびし)」は、ひし形を4つ組み合わせた幾何学的なデザインで、別名「四つ割菱(よつわりびし)」とも呼ばれます。この家紋は武田氏の威信を象徴するだけでなく、のちに信玄の子孫や家臣団によっても広く用いられました。

武田信玄の名言

人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり

意味:人こそ国を守る城であり、石垣であり、堀である。情けを持って人に接すれば味方となり、敵意を持てば敵になる。

信玄が人材の重要性を説いた言葉で、「何よりも人の力が大切」であることを示しています。この理念は、信玄の領国経営の根幹を成していました。 

上杉謙信(うえすぎ けんしん):義の心を貫いた武将 

上杉謙信 戦国武将

武将でありながら僧のような精神性を持ち、「義」に生きた上杉謙信。その潔い生き様や信仰心など、多くの人々を惹きつける謙信の姿を詳しく紹介します。

上杉謙信は何をした人?その生涯と人物像 

上杉謙信 新潟
上杉謙信公像(春日山城跡) 写真提供:公益社団法人 新潟県観光協会 

上杉謙信(1530年〜1578年)は、越後国(現在の新潟県)を治めた戦国大名で、「越後の龍」「軍神」と称されるほどの戦上手として知られています。初名は長尾景虎(ながお かげとら)で、後に関東管領・上杉憲政の養子となり、上杉姓に。武田信玄との「川中島の戦い」をはじめ、数々の戦で武勇を示しました。義を重んじる性格で、「敵に塩を送る」の逸話に象徴されるように、私利私欲にとらわれず正義を貫いた人物として評価されています。

上杉謙信の死因にまつわる諸説と謎

上杉謙信の死因には複数の説が存在しますが、通説では、1578年に春日山城内の厠で脳卒中によって亡くなったとされています。謙信は生涯独身で、跡継ぎを決めずに亡くなったため、死後は家督争い(御館の乱)に発展しました。その非業の最期が、多くの謎とともに後世の関心を集めています。

上杉家の家紋「竹に雀」

上杉家の家紋として広く知られるのは「竹に雀」です。竹の葉と2羽の雀を組み合わせた意匠で、上杉家の象徴として用いられました。また、謙信個人の旗印として「毘(び)」の文字を大きく描いた旗が有名で、これは「毘沙門天」を信仰していた彼の精神性を象徴するものとされています。

上杉謙信の名言

生を必するものは死し、死を必するものは生く

意味:生きたいと思う者は死に、死ぬ覚悟がある者は生きる

謙信は生涯で2回しか負けていないと言われていますが、それは常に死ぬ覚悟を持って戦に挑んでいたからかもしれません。「死ぬ気でやる」という言葉があるように、何事も覚悟をもって取り組むことの大切さを表しています。

真田幸村(さなだ ゆきむら / 本名:真田信繁(さなだ のぶしげ)):日本一の兵

戦国武将 真田幸村

大河ドラマ『真田丸』で再び脚光を浴びた真田幸村は、知略と忠義を兼ね備えた戦国最後の英雄とも称されます。その波乱万丈の生涯や伝説的な戦いぶりに迫りましょう。

真田幸村は何をした人?『真田丸』で注目された生涯と人物像

真田幸村(本名:真田信繁、1567年〜1615年)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて活躍した武将で、特に「大阪の陣」での奮戦により「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称されました。「関ヶ原の戦い」では西軍に属し、敗戦後は高野山麓の九度山で隠居生活を送ります。しかしその後、「大坂冬の陣(1614年)」では豊臣方として14年ぶりに戦場に赴き、翌年の夏の陣では徳川家康の本陣に迫る活躍を見せるも戦死。その生涯はNHK大河ドラマ『真田丸』でも描かれ、多くの人々に感動を与えました。

真田幸村が「赤備え」を選んだ理由は? 

戦国時代 武士 侍
※写真はイメージ 

「赤備え(あかぞなえ)」は全身を赤色で統一した軍装で、戦場での視認性や軍の結束力、士気を高めるために用いられるものです。元々、武田信玄の部隊が導入していた戦法であり、幸村もこれを継承しました。戦場での視認性と敵に恐怖心を与える演出として、大いに効果を発揮したとされています。

真田幸村の家紋「六文銭」 

真田家の家紋といえば「六文銭(ろくもんせん)」。これは仏教における三途の川の渡し賃を意味し、武士として常に死を覚悟して戦うという精神を象徴しています。戦場ではこの家紋を旗印や具足に掲げることで、自らの決意を示しました。

真田幸村の名言

関東勢百万も候へ、男は一人もなく候

意味:関東(=徳川方)の兵はたくさんいるが、男と呼べる人物は一人もいない

数の力に屈せず、志と覚悟こそが本当の強さであるということを表した言葉。幸村が大坂夏の陣にて口にしたとされています。最後の最後まで武士としての誇りを貫いた、幸村らしさを感じる句です。

伊達政宗(だて まさむね):独眼竜の伝説 

戦国武将 伊達政宗

洗練された戦術と戦略、そして独自の美学を貫いた伊達政宗。隻眼(せきがん)になった理由から料理にまつわる逸話など、多面的な魅力を持つ政宗の人物像を深く掘り下げていきます。

伊達政宗は何をした人?その生涯と人物像 

伊達政宗公騎馬像(仙台城跡)写真提供:宮城県観光戦略課

伊達政宗(1567年〜1636年)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将で、仙台藩の初代藩主として知られています。18歳で家督を継ぎ、奥州を平定。豊臣秀吉や徳川家康といった天下人の時代を巧みに生き抜き、仙台の地に強固な基盤を築きました。また、支倉常長をスペインに派遣するなど、国際交流にも積極的だったとされています。「独眼竜政宗」として多くの人々に親しまれている人物です。

伊達政宗が片目になった理由は?

伊達政宗は幼少期に天然痘(疱瘡)を患い、右目を失明したとされています。ハンディキャップにより武士としての将来も心配されたようですが、政宗はそれを乗り越え、自分の弱点を強さに変えて「独眼竜」の異名を持つ武将として名を轟かせました。

伊達政宗の家紋「竹に雀」

伊達政宗の家紋といえば「竹に雀」が有名です。元は藤原氏勧修寺家の定紋で、室町期に関東管領であった上杉家に下賜(かし)されたもの。この「竹に雀」を使うことで、藤原氏流上杉氏との繋がりを強化していったとされています。

伊達政宗の名言

この世に客に来たと思えば何の苦もなし。

意味:人はこの世に“客”として一時的に来ているだけなのだから、どんな苦しみや困難も大したことではない

右目を失いながらも戦乱の世を生き抜いた政宗だからこそ、「困難や試練も、一時の通過点に過ぎない」という考えに至ったのかもしれません。現代にも通ずる教訓として知られています。

伊達政宗が考案した料理 

ずんだ餅 宮城 仙台名物

伊達政宗は料理や食文化への関心も高く、保存食や兵糧の改良にも力を入れました。なかでも「ずんだ餅」や「仙台味噌」は、伊達政宗が考案したという明確な史料は存在しないものの、彼の時代に普及が進んだとされています。また、味噌の大量生産体制を整えるなど、仙台藩の食文化の礎も築きました。

戦国時代を彩った名将たち。彼らが大河ドラマやゲーム、漫画などに繰り返し登場し、今なお語り継がれるのは、そのドラマチックな生涯と普遍的な価値観に、多くの人が共感を覚えるからでしょう。この記事を通じて、歴史の奥深さと彼らの人間的魅力に触れていただけたら幸いです。 

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